前田一族と荒子城

 富士権現社の境内にある荒子(あらこ)城跡の立札には、「天文年間(1532〜1555)前田利昌が築城、その長男利久、4男利家、利家の長男利長が相次いで居城。天正3年(1575)利家が越前北の庄(史実は府中説が有力)に移り、同9年(1581)利長も越前の府中(現在の武生市)に移り廃城となった。この城は『尾陽雑誌』『古城志』などに、東西約68米、南北約50米(「寛文村々覚書」には″古城跡東西38間、南北28間、先年前田又左衛門居城之由、今ハ畑ニ成ル″と記されてある>)と記され、一重堀をめぐらした」と書かれてあります。

前田利家の初陣姿(荒子小学校どんちょう)

『荒子』のいわれ(「中川区風土記」)

 地理的なことについては、ここは中世の荘園の中を流れていて名付けられた庄内川の一支流の荒子川の付近になります。″正和4年(1315)に庄内川で大水があり、その下流に新しい沖積地ができたのが、事のおこりで、富田荘と一楊御厨(いちやなぎみくりや)神宮の領地で、ここより伊勢神宮へ献上米があったところとの間で争いが起こりました。その争いが34年も続いたそうです。その一楊御厨の中央に「荒子」がありました。″

 名前については、″荒子とはアラキ村というなまりで、発音が変化したということです。その意味は開墾したばかりの荒田圃[あらたんぼ]のことです。″といわれ、肥沃な土地に変わりつつあった当時を彷彿とさせてくれます。

荒子小学校の校章は梅鉢紋

 中川区の公式パンフレット等には必ず前田利家の名前が明記されていますし、荒子小学校を訪れてみれば、校章に金沢と同じ「梅鉢の紋」が使われている位です。金沢市内の公立小学校の帽子の統一紋章が、梅鉢の紋の中に「金」の字が配置されているのに対し<※最近は黄色の安全帽子の使用であまりかぶらなくなっているが>、荒子小学校のそれは、同じ紋の中に「荒」の字が配置されているのです。

 荒子小学校の初代校歌を見ると
 「一、金鯱かがやく中京の
     西を流れる荒子川
    これ利家の生まれし地
    これ利家の育ちし地
    観世音寺の名と共に
    我等の里の誇りなり
    勇む荒子の健男子」

 とあり、荒子人気質というか中川区民気質が如実に現されているのを知らされたのです。又、小学校を卒業生するに際しては、『梅と槍と百萬石』という前田利家について書かれた小冊子が全員に配布されます。かつ、戦後に復活した″前田賞″という優秀生徒男女各1名に贈る賞の存在等、ますます利家出身の町の面目が現されています。

荒子城ゆかりの荒子観音

 現在の荒子は、愛知県名古屋市中川区の中で荒子学区と言われる地域として知られています。
 利家当時の面影を残す主なものとしては、尾張四観音の一つである荒子観音と荒子城跡の富士天満宮に代表されます。

 現代の中川区は名古屋市の西南部に位置し、面積は32.4で市域の10%を占め、人口は197,078人を数え、名古屋市内第1位となっています。
 さらに24の学区に分かれ、荒子学区はその中でも18,674人(それぞれ昭和63年7月1日現在)と最大の人口を誇っています。
 昭和44年に市電が廃止されるまでは、素朴な中川区の中では荒子観音界隈は大変にハイカラな所でした。
 しかし、交通の不便さからか年1回の節分の折以外寂れ出し、まとまった商店街が荒子地区から消えつつあります。
 ただ、昭和57年に地下鉄の東山線が高畑駅(区役所の場所)まで開通することで新たな発展の基礎が作られつつあります。
 区民意識も高揚し、前田利家を中心とする歴史遺産を守る気風も一層高まって来ております。







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